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和田重次郎 History

1875年(明治8年)
日の出町の河川緑地公園にある子規の句碑「新場処や 紙つきやめば なく水鶏(くいな)」

当時 日の出町は、紙の里であった。重次郎の育った日の出町の河川緑地公園にある子規の句碑「新場処や 紙つきやめば なく水鶏(くいな)」

1月6日 愛媛県周桑郡小松町(現西条市)にて、父和田源八(旧小松藩士)と母セツの次男として生まれる。

1879年(明治12年) 4歳
父源八が病死し、母セツの実家のある愛媛県温泉郡素鵞村(現 松山市日の出町)に身を寄せる。
1886年(明治19年) 11歳
母セツの親戚にあたる「戸田製紙」にて働く。
1892年(明治25年) 17歳
バラエナ号

バラエナ号

「住友になる」という大志を抱き、アメリカに密航。
サンフランシスコに上陸後、捕鯨補助艦バラエナ号に乗り、三年間北氷洋で働く。このとき、ノーウッドから英語・地理等の知識を修得する。

1894年(明治27年) <日清戦争勃発>
1896年(明治29年) 21歳
秋、日本に一時帰国し、母に孝養を尽くす。
1897年(明治30年) 22歳
犬ぞりと狩猟の名手となる

犬ぞりと狩猟の名手となる

アラスカに戻ると、原住民のイヌイットさえ恐れていた北極圏の奥地を探検し、犬ぞり使いと狩猟の名手となる。
氷に閉じ込められた二ューポート号をジェニー号に乗り救援する。救援の時、後のタバスコ王となるマッキルヘニーⅢ世と知り合う。

1903年(明治36年) 28歳
フェアバンクスでの金鉱発見を伝える重次郎「ユーコン・サン紙」

フェアバンクスでの金鉱発見を伝える重次郎「ユーコン・サン紙」

毛皮交易商をしながらアラスカ・カナダで金鉱発掘をする。
特にフェアバンクスで金鉱を発見し、登録申請をするためにカナダのドウソンに駆けこむと、そのことが新聞記事に掲載され、金鉱を探し求める人々がどっとフェアバンクスに押し寄せ、アラスカ開拓史上名高い「タナナ・スタンピード」が起きる。

1904年(明治37年) <日露戦争勃発>
1906年(明治39年) 31歳
イヌイットのキングとなる。(右から2人目)

イヌイットのキングとなる。(右から2人目)

原住民イヌイットの生活向上に尽くし、三つの村を統括するキングになる。

1907年(明治40年) 32歳
屋内マラソンで連続優勝

屋内マラソンで連続優勝

ノームでの50マイル(80キロ) 屋内マラソンで優勝(連続)し、「グレイト・ワダ」と称えられる。

1908年(明治41年) 33歳
前人未踏のドウソンから5,000マイル(8,000キロ) に及ぶ北極海沿岸を犬ぞりで探検し、新聞で大きく報じられる。

犬ぞり

1909年(明治42年) 34歳
alaska_mapセワード商工会議所から、セワードからアイディタロット鉱山までのトレイル(雪道)の開拓を依頼され、30隊の犬ぞりを率いて調査する。そのトレイルのおかげで、1924年ノームでジフテリアが発生した時、フェアバンクスから犬橇で血清を運ぶことができ、多くの人の命を救える。これを記念して世界最長の犬橇レース、アイディタロッド国際犬橇レースが1973年から始まる。
1913年(大正2年) 38歳
重次郎の母セツ

重次郎の母セツ

タバスコ王マッキルヘニーと協働する。

1914年(大正3年) 39歳 <第一次世界大戦勃発>
晩年の重次郎

晩年の重次郎

ワダ・スパイ説が流れ、行方不明となり、一人娘の日米子が捜索願いの新聞記事を出す。

1920年(大正9年) 45歳
カナダ政府の油田調査員となり、北極圏からマッケンジー河全流域を探検する。
1933年(昭和8年) 58歳
顕彰碑、胸像、文学碑

顕彰碑、胸像、文学碑

8月15日 母セツ 松山市日の出町で死亡する。

1937年(昭和12年) 62歳
3月5日 アメリカのサンディエゴ郡病院で死亡する。
2007年(平成19年)
重次郎の育った日の出町の緑地公園に顕彰碑、胸像、文学碑の三基が建立される。

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